■エジプト・アレキサンドリア入港【第8日目】・(平成22年)2010.2月27日
【エジプト・考古学博物館を訪ねる】
エジプトの首都カイロとピラミッドが建つギザは、ナイル・デルタの付け根部分にある。
ナイル河畔は、水の流れによって削られた谷のようになっているのであるが、日本で言う切り立った断崖絶壁の谷とはまったく違っていて、穏やかなナイルの流れが造りだした「広大な低地」なのである。そして、首都カイロは、その低地部分にできた街なのである。
エジプトを語ることは、ナイルを語ることであると言われている。河は悠然と流れている。
人口1,200万人とも言われているこのカイロで、詩人になりたかったら、街の喧噪がおさまる朝早くに、ナイルの流れを眺めることだと….言った人がいる。 カイロの年間降水量はわずか25㍉だとか。ナイルの河の水は最も大切な資源なのである。
エジプトの首都カイロのホテルでのランチを終えて、バス移動をし、エジプト考古学博物館へと案内された。さあ、世界に誇るエジプトの秘宝を展示するエジプト考古学博物館の見学が始まる。 館内は、1階と2階に別れており、初期王朝から新王国時代の品々が展示されている1階から見学が始まった。
右の写真は、「メンカウラー王」が、ギザ台地に建造した「第3ピラミッド」の河岸神殿から出土したものだそうだ。 王は中央に立ち、頭には神エジプトの象徴である白冠を戴いている。 右手にはハトホル女神・左手には、「ノモス」を擬人化した女神を伴っている。
ハトホル女神は・天空の女神であり、さらに諸神の母、死者の守護神、歓喜の神など多くの性格を持ち合わせているとされている。
雌牛の角と耳を持ち、円盤を載せた女性….雌牛としても表されているとか。
左の写真は、ツタンカーメンの王墓の中の玄室入口に左右に向き合って置かれていた等身大の「カー像」である。古代エジプトの人は「カー」という目に見えない存在を信じていて、生きている人間というのは、この「カー」に肉体がくっついていると考えていた。
だから、人が死ぬと「カー」だけが残ることになる。
生前の肉体に代わる「第2の肉体」が「カー」と呼ばれる「彫刻」であり、「ミイラ」なのである。 古代エジプトの人が、「カー」の存在を信じたればこそ、あれほど丹念に「ミイラ」をつくり、「膨大な品々の副葬」をしたのであった。
■ラーヘテプ王子と妻ネフェルトの座像
この王子は、第4王朝スネフェル王の息子である。紀元前2,600年頃のもので、石灰岩の彫刻に彩色されている。
5,000年もの時の隔たりを感じさせないほど美しい色彩を保っているのには、びっくり。 この2体の彫像の両眼が水晶と黒曜石で象眼されていて、まるで生きているかのようだ。
■クフ王の座像
古代エジプトで、最大のピラミッドを造った偉大な王「クフ王の像」は、たったの高さが7㎝。(下の写真)
どうしてぇ〜???…..クフ王に関するものは、これしか見つかっていない。
■ツタンカーメンの3像(右の写真)
中央の像は、ミイラの姿になったツタンカーメン王が、メンカレト女神に守護されて、冥界を通過して行くところを表現した像と言われている。右手の像は、赤冠をかぶり、右手に穀竿・左手に王杖を手にして歩く王。 左手の像は、ホルス神と化した王が、セト神であるカバを銛で突き刺している。
古代エジプト第18王朝の第12代目のファラオであるツタンカーメンは、その生まれについて、はっきりしていない。 王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったとされているが、若くして死に(推定19歳)、王家の谷に葬られた。
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年に発見・発掘された。 しかも、きわめて珍しいことに、3,000年以上の歴史を経て、ほとんど盗掘を受けなかった。….で、その発掘は、世界を大いに驚かせた。
こうして、ツタンカーメンのミイラと黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品は、エジプトに残された。そして副葬品の大半は、このエジプト考古学博物館に収蔵され、一般に公開されている。
ツタンカーメン王のミイラは、埋葬室に置かれた巨大な厨子の中に納められていたそうで、その厨子の表面は、金張りで、王が死後の世界を生きてゆくための、励ましの言葉や、葬祭の儀式の言葉などが記されているそうだ。(上下の写真)
■カノボス厨子と壺 古代エジプトでは、ミイラを作る際に、心臓以外の内蔵を取り出し、4つに別けて保存したそうで、その内蔵を収める容器をカノボス壺という。 その壺を4つに仕切られた櫃(ひつ)に納め蓋をしている。そのひとつひとつの蓋が上の写真のように、若々しいツタンカーメン王の頭部の像になっている。
カノボス厨子の四面には、遺体を保護するイシス・ネフティス・ネイト・セルケトの四女神が、顔を厨子に向けて両腕を広げ、保護する姿勢で立っている。
こまかい襞(ひだ)をもつ黄金の薄衣に身を包んだ女神たちは、ツタンカーメン王の秘宝の中にある女性像の中でも、際立って美しく、魅力的である。
次にツタンカーメン王の玉座にふれておきたい。下の写真の玉座は、ツタンカーメン王の墓に収められていた、2,000点以上の副葬品の中のひとつである。
この黄金の玉座の背もたれには、王宮の部屋でくつろぐツタンカーメン王と王妃アンケセナーメンの姿が描かれている。
王と王妃は、サンダルを片方ずつ履いており、夫婦の仲がとても良かったことを示しているそうだ。また、背もたれの上部には、太陽神アテン神も描かれている。
この背もたれのレリーフにある衣服の部分は、銀で装飾され、人物の各部分には、赤の鉛ガラスと青ガラスが使われ、目にはアラバスターの象眼がはめられている。 椅子の左右の肘掛けには、ツタンカーメンの即位前の名前と、即位後の王としての名前が刻まれ、脚にはライオンの彫刻がある。
紀元前1,300年頃に作られたツタンカーメン王のマスク。
この黄金のマスクは、重さが11㎏・23金の純度の高い金で作られているそうだ。
ツタンカーメンというのは、略された名前で、正式には「ツーツ・アンク・アメン」と呼ぶそうで、「アメン神の復活した姿」という意味がある。
これだけの副葬品が発見されていながら、その人生の記録や歴史は、ほとんど解明されていないそうだ。
ファラオではないけれど、美しさはクレオパトラに負けない「ネフェルティティ」。ツタンカーメン王より少し前の時代に生きた、古代エジプト黄金期の人物の一人である。
夫「アメンヘテプ4世」の宗教改革に協力したそうだが、実を結ぶことなく夫が死んでしまう。
アマルナ美術館の最高傑作として有名な「ネフェルティティ」の胸像である。
古代エジプト時代の歴史は、古王朝時代・中王朝時代・新王朝時代とに分けられる。死後の世界に、安楽な生活を送ることが出来たのは、王や王族に限られていた。その為に、ピラミッドの玄室の壁面には、経文を書き残した。これが「ピラミッド・テキスト」と言われているものである。
そのあと新王朝時代に入って、巻物「パピルス」に経文が描かれるようになる。(上2枚の写真)
右の写真は、「パピルス」を作る過程を実演して見せているところである。
この「パピルス」に描いた経文….それが「死者の書」と言われるもので、死後に迎えるであろうさまざまな障害や審判を乗り越えて、無事に楽園に到達するためのガイドブックであったのだ。
エジプト観光の最後に、この「パピルス」の専門店に案内された。(下の写真) そのあまりにも神秘的な美しさに魅かれて、記念に買い求めた。
首都カイロのパピルスの店を後にして、私たちを待つ船「スブレンディダ号」が接岸するアレキサンドリアの港へと、私たちを乗せたバスは、母なる川「ナイル」を渡り、北上して行く。 私たちのバス…21号車を、終日ガイドしてくれたエジプト人の現地ガイドは、このカイロの街の外れで下車する。 なので、私たち乗客を、アレキサンドリアの港まで案内するのはドライバーひとりだけとなった。
カイロの街を出る頃には、ナイルに夕暮れがせまっていた。河岸に停泊するナイルクルーズの船に、そして街に明かりが灯り始めていた。 今日のエジプトのピラミッドと考古学博物館の観光は、およそ12時間という充実した一日となって、少々疲れもあったけれど、勇気を出してここまで来て良かったと思ったものだ。
これからアレキサンドリアまで3時間….ばすの車内の照明は全てが消された。なので、一寝入りして帰ることにした。
アレキサンドリアの港に着いて、乗船したのは夜9時を過ぎていた。
夕食をとるために、14階のデッキの「ボラボラカフェテリア」に行くと、夜も遅い時間というのに、私たちと同じく….エジプトの観光を終えて帰ってきた乗客たちで溢れ返っている。
ビールを飲みながらのほっとした夕餉であった。
今日の観光は「英語圏によるガイドの中」だつた。始まった朝の一時間ほどは、何か一言二言ぐらいは理解しようと、アンテナをしっかり立てて神経を集中させていたようだったが….何時の間にかそうしたことも忘れて、終日降りそそぐ、英語のシャワーに浸っていた。
22 : 00 船は次の寄港地・ギリシャのクレタ島・イラクリオン港に向けて出港して行く。航行距離は約687㎞。明日は、「終日航海日」であるから、ゆっくり出来そうである。
今日も一日が安全で幸せだつた。 感謝しながら….さぁ….シャワーを浴びてやすむことにしよう。
地中海・エーゲ海クルーズ17・2010(8) への6件のフィードバック