2011年3月9日(水)台湾周遊の旅は3日目を迎え・高雄のグランドハイライホテルで目を覚ます。am6時半には部屋を出て43階の朝食レストランへ行く。ビュッフェスタイルの朝食….並んでいる料理の種類の多さにびっくり。少しずつ採ったつもりなのに、手元の皿には料理が溢れんばかり。その料理の中には、かつて見たことも味わったこともない様な料理が多い。窓際の席をとって、およそ1時間もの朝食を楽しみ、am8時20分・迎えの観光バスでホテルを後にした。
途中、土産品店に立ち寄ったあと、バスは台南に向けて高速道路をひた走る。高雄から台南まではおよそ50㎞….1時間弱のバス移動であった。台南の市内に入って最初に「鄭成功」を祀る廟「明延平郡王祠」に案内された。
この「鄭成功」の生誕の地は、奇しくも私と同じ長崎県平戸市である。日本・中国・台湾との関わりの深い漢民族の英雄である「鄭成功」に対して、学識も地位も名誉も財産もない私、比較にもならない。….だが、同じ郷土に生まれた者のはしくれとして、避けては通れないのが「鄭成功」なのである。
「鄭成功」の父は、中国・福建省の裕福な貿易商の家に生まれ、名を「芝竜」と言った。若い頃、家を飛び出してオランダ船に逃げ込む。その船が、日本の平戸に入港する。「芝竜」はその後、平戸島の入り江・内浦に住むことになる。そこで「芝竜」は、当時の藩士「田川氏」に見込まれて、その娘・田川マツをめとる。そして生まれたのが、幼名を「福松」と呼ばれ、後に「鄭成功」となるのである。1630年、父の芝竜は、福建省に「福松」を連れて帰り、教育に力を入れた。鄭成功は科挙(官僚登用の試験)に合格、その後南京の大学に入学した。そして儒学はあの有名な孔子に習ったそうである。
お母さんを亡くした鄭成功は、書生の身でありながら、かつて父親の配下にあった兵達を率い、清との戦いに挑む。しかし、清の力にアモイは危なくなり、鄭成功は、台湾に根拠地を移すことになる。当時の台湾とは、今の台南のことで、1620年からオランダ人が占拠していた。
鄭成功は2万5千の兵を、数百の船にのせて台南に上陸し、9ヶ月でオランダを降伏させた。しかも、流血を避けて、オランダ人を追い払い、中国人の政権を作ったと伝えられている。中国人に英雄視される理由の一つでしょう。また彼の、純粋さと、書生っぽさが魅力なのでしょう….台湾、中華人民共和国、両方に人気が有りますし、日本人もまた彼を好きな人が多いそうです。 しかし「鄭成功」は、オランダの植民地支配から台湾を解放した翌年(1962年)疫病で亡くなる。38歳と言う若さであった。
鄭成功は、明の皇帝の姓である「朱」を授けられたことから「国姓爺」と呼ばれている。独自の台湾経営を築いた功労で、死後、彼を慕う人々から「開山王」「開台聖王」と呼ばれ、現在台南の重要な史跡である「延平郡王祠」の構内に、福州式建築の祠が建てられている。28歳の頃この高雄に住み、亡くなる39歳までの十年間、学校を造り教育に力を注ぎ、そしてお寺の建立にも活躍をし、台湾の興隆に勉めた英雄なのである。惜しまれて亡くなった鄭成功に…台湾の人々は今もありがとうの感謝の誠をささげ続けているのである。一方日本では今も平戸の内浦に、その邸宅跡が残されている。そして毎年7月14日、鄭成功の誕生日に地域住民により盛大な祭りが行われている。
次に孔子廟に案内された。孔子には、門人が3000人いたと言われているが、その中に才能が突出した72名のお弟子さんがいたそうだ。その皆がのちに大変偉い歴史上の方々となっているそうだ。「孔子廟」は台南だけではなく台湾各地にあるが、台南の孔子廟は台湾で最古ものだそうだ。この孔子廟は1665年に、鄭成功の参謀長であった陳永華の発議により建てられたといわれており、人材の育成を目的として、学問に精励する人格者をここに招聘したようである。
孔子廟はその名の通り孔子をはじめ、孔子の門弟や歴代の賢人を祀っているのであるが、単なる廟というよりも、実際は学校として機能していたようである。東門の入口上部には「全臺首學」と書かれた額が掲げられているが、これは台湾で第一の儒教の学校という意味らしい。事実、台南の孔子廟は清朝末までは台湾の省立の最高学府として多くの知識人を出してきたといわれている。孔子廟の中央に建てられている大殿には孔子が祀られており、大成殿と呼ばれている。
次に、台湾の人々・誰もが知っているお寺で…「合格祈願」と「ぼけ防止」??…の神様「 魁星爺」 が祀られているとか聞いたが?…その「 赤嵌樓」に案内された。 2階建ての赤レンガで作りで、国家第1級古跡に指定されている。霊験あらたかだそうで、深い信仰を集めており、現在に至るまで線香が絶えたことはないと言われている。また、合格祈願を祈る学生・受験者が訪れて合格祈願をしていた。
そうした史跡の観光を終え、台南で最も大きいと言われているランディスホテル・タイナンのレストランへ案内された。同じテーブルに着いたツアーの皆さんに誘われるように、台湾ビールを注文しての昼食となった。ガイドの案内では、時間的にゆっくり食事がとれると聞いていたが….コース料理….思わぬ時間がかかってしまい、食事の後半は新幹線発車時刻を気にしながらの急ぎ足となってしまった。
13:49台南発新幹線・座席は6号車の3列E/Dのビジネスクラス席である。座席はゆったりで快適。この列車は15:36に台北に到着予定であるから、台南から台北までの所要時間は、1時間45分と速い。台南と比べるとここ台北は、気温が下がって13℃とひんやり、あわてて上着をつけた。台北市内に入って直ぐに龍山寺へ行く。
私たちにとっては2度目の訪問で、10年ほど前のことを想い出しながらの参拝となった。境内には地元の人たちの切れ目ない読経が延々と続いている。この読経….早朝から日没後まで、終日続いていると聞いてびっくりだ。
その参拝を終えて次に中正記念堂へと移る。中正紀念堂は総統・蔣介石の顕彰施設である。中正紀念堂の「中正」は蔣介石の本名であり、介石は字(あざな)である。蒋介石は、中華民国の初代総統・中国国民党の初代総裁。蒋介石は、1886年に生まれ、19歳で日本に遊学したそうだ。
今から100年前、孫文さんと知り合い共にして中華人民共和国をつくり、89歳で亡くなった。
今日は、終日、史跡巡りとなって、この旅行記も少々堅いお話しばかりの重たい文面となってしまった。
そうした話しは、もうここらで終わりにしたい。楽しみなのは夕食である。夕食会場のレストランはリーゼント・台北の「晶華酒店」
今晩は、北京ダックに新中華料理となっていた。
今宵も紹興酒の熱燗を注文して飲んだ….が、疲れが出てか、ボトルを飲み干すことが出来なかった。贅沢を言うつもりはないが、美味しかった!….と言うよりは、もうこれ以上は食べられない!….そんな気分でレストランを後にした。バスで20分ほど移動し、宿泊のホテル「グランドハイアットタイペイ」にチェックイン。
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